第5回 宗教文化セミナー【要旨】
第5回宗教文化セミナー
「宗教者が担う社会活動─宗教教誨師、チャプレン、臨床宗教師の現場から─」要旨
平成29年3月13日、聖路加国際病院本館トイスラーホール(東京都中央区)において、第五回宗教文化セミナー「宗教者が担う社会活動─宗教教誨師、チャプレン、臨床宗教師の現場から─」を開催し、およそ八十名が参加した。
宗教教誨師、チャプレン、臨床宗教師の活動を取り上げ、国や行政では担うことができない「いのち」を支える宗教者の活動について、一人ひとりの「いのち」や「こころ」に寄り添う現状を知り、考える機会となった。
猿渡昌盛・府中刑務所所属教誨師、大國魂神社宮司
府中の町のシンボルでもある府中刑務所は、塀の高さ五・五メートルで周囲は八キロほどある。刑務所の正式名称は「刑事収容施設」と言い、刑が確定した受刑者を収容するところで、受刑者が改善更生して社会への円滑な復帰を目指して様々な処遇が行われる施設である。現時点で府中には約二千名の受刑者がおり、そのうち約三百六十名が外国人と、犯罪の国際化が進んでいる。
府中の教誨師は、私を含む現在四十三名。神道系、仏教系、キリスト系、外国人宗教者の十五宗派が活動している。「教誨( きょうかい)」とは「教え諭す」こと。全国教誨師連盟では「宗教教誨は、全国の刑務所、拘置所、少年院等の被収容者に対し、各教宗派の教義に基づき、徳性や社会性の涵養を図り、健全な人格の形成に寄与する作用」と定めている。また、「刑事収容施設および被収容者との処遇に関する法律」第六十七条では被収容者の一人で行う宗教上の行為を認め、同法第六十八条では、被収容者が宗教家(民間の篤志家に限る)の行う宗教上の儀式行為への参加を認めている。
教誨には、法務官や刑務官が行う一般的な教誨と、宗教者が行う宗教教誨の二つがある。宗教教誨には集合教誨、特殊教誨、個人教誨、グループ教誨の四区分があり、私も実際に集合教誨で、正月行事や神事、節分の豆まき、晦日の大祓いなど、季節や節目の神事、行事の再現などを行っている。
個人教誨を行う教誨の部屋には神棚があり、目の前にある神社を通じて、慣れ親しんだ故郷の神社をお参りできることを伝え、一緒にお参りする。また、遥拝(ようはい)といって自分の部屋でもその方向さえ分かれば離れた場所にある神社にお参りができるため、宗教的な生活は限られた場所でも自分の心の持ち方によってそれを継続することができることを伝えている。
現状においては、被収容者の社会復帰は難しく再犯率が高いという事実もあるが、神道では、人には必ず誠の心があると考えるため、被収容者には、罪や穢れをはらうと清浄な白い色になり、いったん染まった色でも祓い、清めることによってまた白い色に戻ることができること。そして、常に人のために役立つことを行い、例えば、率先して神社のお祭りの手伝いをしたり、清掃奉仕をしたり、そういうことを続けていけば、次第に社会から認められ、社会復帰ができると諭している。
ケビン・シーバー・聖路加国際大学キリスト教センター主任チャプレン、司祭
病院で活動する「チャプレン」は臨床宗教師とも言い、患者やその家族のスピリチュアルケアを専門とする聖職者のことである。もともとはキリスト教圏の国々にある学校や病院等の施設にある礼拝堂(チャペル)にいる牧師をチャプレンといった。今では社会の多様性に伴い、ユダヤ教、イスラム教、仏教などのチャプレン(仏教ではビハーラ僧ともいう)も働いている。チャプレンはカウンセリング職の一種で、マンツーマン形式で患者や家族、関係者などの話をひたすら「聴く」という立場をとり、相手のことを一方的に判断せず、相手を中心に接して「受容する」ことが求められる。また、実際に病院で携わる日本人患者の八割は特定の宗教をもたないが、チャプレンは布教を役割としていないため、相手の宗教心は問わない。
私が務める聖路加国際病院では複数のチャプレンスタッフがおり、緩和ケア、腫瘍内科、小児科などの診療部で多職種チームの一員として働き、患者や家族のスピリチュアルペインについて一緒に悩み、寄り添いながらスピリチュアルケアを行っている。スピリチュア
ルペインとは、患者や家族が生や死を前にしたときに感じる心理的・精神的な問題、あるいは哲学的・実存的な問題、宗教的・信仰的な問題など、幅広い範囲にわたる「痛み」や「苦悩」のことである。ここでいう「スピリチュアル」とは、自分のアイデンティティや価値観、死生観、宗教観を含めた、自分にとっての生きる意味に関するもののことであり、いわゆる心霊主義のことではない。
チャプレンは患者との信頼関係に基づいて、相手の生きる意味、あるいは自己認識、人間関係、将来に対する希望や不安に寄り添う。そうすることで、その人が健全性や幸福感、完全性、安心といった状況を取り戻し、自分らしく人間らしくいられる「well-being」という状況になることを目指す。カルテを見ながら医師はデータに基づいて話すが、チャプレンは常に患者の同伴者になって感情面に寄り添い、その痛みを受容しながら患者の代わりに表現化、あるいは、患者が表現化できるように支えるという役割を担うことが大切だ。
そしてなにより、私たちが宗教者としてできることは祈ることである。多くの患者は無宗教と言うが「祈りましょうか」との問いに皆歓迎してくれる。私たちは患者と家族を支えながら、患者が自分らしく最期を迎えられるように、少しでもwell-being が取り戻され、勇気と尊厳を持って人生を全うすることができるよう支えていきたい。
鈴木岩弓・東北大学大学院文学研究科教授、実践宗教学寄附講座兼任教授
平成二十三年三月の東日本大震災直後から、仙台市営の葛岡斎場において、「心の相談室」の活動をしていた宮城県宗教法人連絡協議会が中心となり、布教ではなく、ボランティアで最期のお弔いを行っていた。震災では僧侶も神職も被害に遭い、ご遺体はあるけれども葬儀ができない方が多数いらしたためで、公共の場所への宗教者の出入りを嫌う行政が多いなか、仙台市は四月末までお弔いを許可してくれていたのである。
その後、宮城県の宗教者は被災者の心のケアの必要性を感じ、「新生・心の相談室」を開設。国立の東北大学に事務局を置き、私が事務局長になり、室長には岡部健という医師が就いた。この岡部医師(平成二十四年にご逝去)が、布教目的ではなく宗教者が超宗派、超宗教的に宗教的ケアを行うということはできるのだろうかという問題に、大きな方向性を見出したと言える。精神科医や臨床心理士だけでは補えない「死」にまつわる心のケアは、宗教者のやるべきことで、しかも、それは特定の宗教色を出さずに行うことが必要なのだ。なぜなら、医療現場や災害時にケアが必要な相手は、自分の宗派と関係がない人、あるいは無宗教の人である可能性が高いからである。とはいえ、臨床宗教師自身は宗教者として自己の信仰をしっかり持っていなくてはならない。相手に応じて幅を持った接し方ができる宗教者が、臨床宗教師の一つの在り方になるのではないかと考えている。このような理由から、新しく「臨床宗教師」という言葉を造語し、宗教宗派に偏らない公共的な役割を果たす宗教的ケアの専門家が誕生した。
臨床宗教師を養成する寄附講座は宗教的な色のない国立の東北大学でスタートしたことで、後に他の大学での養成講座拡大に繋がった。また、公立病院である東北大学付属病院の緩和ケア病棟に、臨床宗教師が一人雇用されたのは特筆すべきだ。
超高齢化社会においては、自己の死を見つめることが重要になるため、臨床宗教師にとって今後の大きなテーマになるのではないかと思っている。
公益財団法人日本宗教連盟
「第5回宗教文化セミナー」要旨 (文責事務局)
平成29年3月13日・会場 聖路加国際病院本館 トイスラーホール
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