創立70周年記念シンポジウム【要旨】

創立七十周年記念シンポジウム

宗教を現代に問う─宗教への提言

(講師講演の要旨)

開催  平成29年2月18日

会場  聖アンデレ教会(東京都港区)

参加者 およそ80名

 

講演I

【企業改革実践を通して感じた組織と人の在り方】

向井眞一・株式会社内田洋行顧問

向井氏は滋賀県生まれ。両親ともに仏教寺院の関係者で、何かと宗教との縁があるという。そんな向井氏が、五十一歳で内田洋行の社長になったとき、本社はおよそ八百億円の借金を抱えた状態だった。経営改革を迫られた状況のなかで大切にしてきた組織や人の在り方について、様々なエピソードを織り交ぜながらお話しをいただいた。

 

<変えてはいけない本質的なもの>

「イノベーション」という言葉は、今から百年以上前にシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter 1883─1950)という人が言い出しました。百年以上たったいまでも、マスコミや教育現場などでイノベーションと言う言葉を使います。ダーウィンが、「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るわけでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」と言ったように、ただ強いもの、賢いものだけが生き残るというわけではなく、時代や環境の変化に対応できることが重要なのです。しかし、そう言いながらも変えてはいけない「本質的なもの」があるという認識も必要で、それなくしては生き残れないことを忘れてはいけません。

私どもの会社、内田洋行は、明治四十三(一九一〇)年に南満州鉄道の御用商人として、測量機器や設計機器、文具製品、英字タイプライターなどを販売していました。戦後すぐは売るものがなく釣鐘を売ることから始め、また、これからの時代は「人」だということで、主に学校で使う教育教材やコンピューターなどを制作販売しました。

企業にも寿命があり、現在は十八年だと言われるなか、どうすれば企業を存続できるのでしょうか。それには先ず「創業者の視点」を守ること。利益中心の短期志向に走らず、人や組織を育て、商品の開発に時間をかける長期思考が大切です。この創業者の考えが現在も引きつかれています。次に「顧客主義」に立つこと。そして「共創視点」に立つこと。これからは、技術は自社だけでなく多方面とグローバルに共創していく考え方に立たないといけません。この3つが大切です。

 

<「政策」と「人財」>

さて、私が社長を引き受けてから先ずやったことは二つ。ともかく聖域なく経費を削減して、会社全体の有利子負債を返済しました。その一方で夢をもたなくてはいけません。これから成長できる体質をつくるために、今の時代に合う新しいものとして、教育とコンピューター、オフィスの空間デザインの製作をすすめましたが、今はどの分野が伸びるか答えも正解もない。前例がなくても、独自のモデルをつくらなければいけません。質の経営をして新しい価値を創造する発想が大事なのです。大切なのは時代とトレンドの行先の本質を読むこと、「政策」を持つことです。また、会社の立て直しのためには人材の育成も行いました。難事は最高権力者であるトップがやらないと全体に弊害がおこりますが、大事は部下に任せて手柄を立てさせ成長させます。また、社員みな減給してもリストラはしませんでした。会社や組織を動かすためにはやはり社員力、「人財」とも言いますが、人を育てることが重要なのです。

 

<face to face とそれを支える技術>

昔は、インターネットは調べる手段でしたが、現在はInternet of Things(IoT)といって、「人」やあらゆるものがネットワークでつながります。例えば、人と医療機関とをネットワークでつなぐことで常に自動的に健康が管理され、必要な時には医者が往診に来てくれる、といったことも近く実用化されます。

しかしそんな時代だからこそ、最終的に大切なことはface to face で、クリエイティブなことや人間性に係わることはface to face でないと駄目なのです。ある有名な医者が言いました。「向井さん、いろいろ医療機器も進歩したのだけれども、私が子どもの背中を手でさすってやって、『大丈夫だよ』と言ったら、元気に帰ってご飯を食べるようになったのです」と。そういう、人と人とのふれあいや対面で行うことが重要なのです。そうなると、コンピューターは主役ではなくサポートする立場にしたらどうか、いろいろなところにちりば

めて、いつでもどこでも、誰でも、コンピューターや情報に自然に関われるような空間をつくったらどうだろうかと考え、実現してきました。

 

<混沌とした時代に大切なこと>

ここで、社長の心構えを整理します。先ずは歴史的な尺度で考え、いろいろな視点を持つこと。例えば、これから人口減少がますます問題になりますが、人口が少なかった時代はどうだったのか、歴史的な長いスパンで捉えることが大切です。

また、ご縁を大切にしなければいけません。人脈をつくるにも縁を大切にする。そして、とにかく困っている人をそこに放っておかない「優しさ」がとても重要だと思っています。

今の時代は、大転換期だといえます。このような混とんとしたカオスの時代には「本物」を大切にするということが重要なのです。本物とはなにか。私は、過去の歴史の中でずっと継承されてきた信仰など、そういうものであると思っています。今までは、経済と宗教を分けていました。しかし、これからは宗教の方々にも、もっと経済界をよく知っていただいて、経済やカルチャーなどを牽引していただくことを期待しています。

最後に、「徳を修める」ということ。日常のなんの変哲もないことの繰り返しを、毎日の単純な所作を大切にすることで自然と出てくる「徳」、そんなことが、本当に大切なのだと思っています。

 

講演 II

【私たちの中に折りたたまれる日本の心─国際医療NGOジャパンハートの挑戦─】

吉岡秀人・医師、特定非営利活動法人ジャパンハート代表

吉岡氏はミャンマーで無報酬の診療を続けて二十年。貧しくて医療を受けられない子どもたちを救いたいと、海外でボランティア医療の先頭に立ってきた小児外科医だ。自分の活動が長く続くのは、この活動が自分の幸せと直結しているから、という。困難な医療活動もあきらめずに邁進する、その根底にある強い思いをお話しいただいた。

 

<医師を目指すことになったきっかけ>

私は一九六五年に、大阪の吹田市で生まれました。子どものころ、大阪万博が盛大に行われていましたが、その一方で、吹田駅近くの地下道の両脇に軍服姿の人たちがゴザを敷いて物乞いをしていました。戦争が終わって二十数年がたっていていたのに、まだ戦後が続いていたのです。

私は中学生のころ、はたと気が付いたのです。私が二十年前の大阪に生まれていたら毎晩のように空爆に遭っていたわけです。人間の運命というのは、わずか二十年という時間のズレでこんなにも変わるのだということに愕然としたのです。当時は、日本から飛行機で数時間の距離にある国で未だ戦争や紛争が続いていました。今この時代に、戦時中の日本人と同じ境遇にある人たちがいる。それならば、何かしなければいけないという気持ちに駆られ、十代の終わりに医者になることを決意しました。そして、どうせなるなら医療を受けられない人を救う医者になろうと思いました。

そして、一九九五年、三十歳のときにミャンマーに初めて行くことになりました。ミャンマーという国は、私が初めていった年のほんの五十年前まで、日本人が三十万人もイギリスと戦闘するために従軍していたのです。さらに、この三十万の日本人のうちの二十万

人が、地獄のビルマ戦線といわれた、『ビルマの竪琴』などで有名な白骨街道で亡くなったのです。二十歳にも満たない若者が多数犠牲になり、現地には日本人の慰霊碑がたくさんあります。特にインドとの国境インパールでの戦いはひどく、日本人がたくさん追われて逃げました。その逃げ惑う日本人に、ミャンマーの現地の農家の人たちが水を恵んでくれたり傷の手当てをしてくれたりしたそうです。

戦後ずっと日本から遺族が慰霊団として現地に行っていたのですが、終戦五十年を機に慰霊団の方から私に相談がありました。今後は慰霊を違う形にしていきたい。身内が亡くなったミャンマーで、今こうして生まれてきても、貧しくて医療も受けられずに亡くなっていく人たちがたくさんいる。この人たちを救えないだろうか、この人たちを救うことが、自分の身内の魂をも救うことにつながるのではないかと。私が診ている患者は貧しい農家の人たちが多く、確かにこの患者たちは五十年前に日本人を助けてくれた人たちの子孫なのだということに私は気付いたのです。私が医療でミャンマーの人たちを救うことは日本人が受けた恩を返すことになる、との思いで現在も医療活動を続けています。

 

<現地の医療と、あきらめない気持ち>

私が行った街は、イギリスと日本の激戦地だったところで、いまだにたくさんの遺体が埋まっています。三十二万人の人口に対して医者はたった一人、二つの病院しかありません。国の医療費予算も一%程度で、入院してもただベッドに寝かされていて、そのまま死んでいく状態でした。

私が貧しい街に行くと、毎朝五時から四十人ほど訪ねて来るのです。空が白み始めるころには人だらけで、患者を診て朝九時になると巡回診療に出かけます。巡回から帰ってくるとまた大量の人。来る日も来る日も、深夜十二時まで診療を続けました。やがて国中からさまざまな病気をもった子どもたちが親に連れられて、私のところに集まり始めたのです。やけどが非常に多く、東南アジアの風土病の脳瘤(頭蓋骨に穴が開いていて脳が飛び出してくる病気)や、水頭症、口唇口蓋裂、腫瘍など様々です。当時医者は私一人で、あとは通訳と車の運転手と事務の現地の人だけでした。麻酔科医も助手もいない、それでも、やらなければならないと思いました。電気は一日二時間しか来ないので懐中電灯十本で手術しました。

ある重篤な男の子を診たとき、私一人では手術も何もできなかった。しかし、救うことをあきらめてしまったら私は医者を続けていく自信がなくなると思ったのです。この子を助けるために日本に連れて行き手術をしましょう、と宣言したあきらめない気持ちが皆を動かし、わずか一カ月後に日本で手術を受けることになったのです。最初はたった一人で始めた活動ですが、二〇〇四年にジャパンハートを立ち上げ、現在では多くの医療従事者が参加し私を助けてくれています。活動はミャンマー、カンボジア、ラオスへと広がりました。

 

<メッセージ>

私はミャンマーの日本人慰霊碑の前に立ちつくし、いろいろと考えました。海外で活動する私は、また家族のもとに帰ることができるのです。でも、最愛の人との再会が叶わなかった人が二十万人もいたのです。この人たちはどんなことを思っていたのだろうか。ある日、「日本のことをよろしく」という言葉が私のところに落ちてきました。まるで亡くなったたくさんの人たちの思いがつまった、私へのメッセージのような言葉でした。私たちに命の大切さを示してくれた彼らの思いを、私は生涯背負い続けて生き続けたいと思っています。

 

公益財団法人日本宗教連盟

創立70周年記念シンポジウム

「宗教を現代に問う─宗教への提言」講師講演要旨 (文責事務局)

平成29年2月18日・会場 聖アンデレ教会

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