第2回 宗教文化セミナー【要旨】

第2回宗教文化セミナー

総合テーマ「宗教は『家族』と『地域社会』を再生できるか」全三回シリーズ

第1回「悩める若者にどう向き合うか」要旨

 

 

私たちの生きている現代社会には、いろいろな苦しみや悩み、さまざまな矛盾が存在する。宗教者は社会の苦しみにどのように寄り添い、向き合っているのか。

平成25年6月17日、國學院大學・常磐松ホールにおいて、第二回宗教文化セミナーを開催した。総合テーマ「宗教は『家族』と『地域社会』を再生できるか」全三回シリーズの第一回として、「悩める若者にどう向き合うか」について、実際に相談者に寄り添う活動を行っている三氏に現場の声を聞いた。

 

森一弘氏(カトリック司教、一般財団法人真生会館理事長)

私は、子どもの頃の体験から、この世界のどこにも自分のための確かな居場所は無いのだという不安感や不信感を根底にかかえ、修道生活を送ってきたが、それは、苦しみ悩む現代の若者とどこか通じるものがあるように思う。司祭に叙階されてから、この世界とそこに生きる一人一人にきちんと向き合ってきた。それぞれの人生の歩みは固有なものであり、同時にかけがえのない存在で一回限りの人生を生きているから、という信念によってである。

悩みを抱えた若者のほとんどが、「あの人のところに行けば聞いてもらえる」といった、口コミで相談に来る。伴侶の死亡や、子どもの自死、心の崩壊、リストラなど、「Doing」の世界の限界を感じ、人生や世界の残酷さに痛めつけられ、のた打ち回っているというのが、どの人にも共通して見える。そういう人たちと向き合うときは自分の無力さを正直に告白する。医者でもカウンセラーでも精神科医でもない。だから専門的な知識や技術で癒してDoing の世界に戻すことはできないと自覚しながら向き合う。

「Doing」の世界とは、自分の努力で自分の人生の幸せを手繰り寄せようとしていく営み、「To Do」こうすべきだという世界である。それに対して、人間の核となるBeing は、基本的には自分の力が及ばない世界である。世界の営みをDoing だとするならば、その不安定さをしっかりと受け止めてくれる大いなるBeing ─神という言葉を使っていいかどうか

─その大いなる存在の中に自分のBeing を受け止めてくれる命の豊かさがある。だから、「べき論」には触れず、「本当につらいだろうね、よく分かるよ」というBeing のレベルで響き合い触れ合うことを心掛けると、次第にその大いなる存在に目覚め、生かされているという安定感と乗り越えていく力の土台を得る。そうして導くことが宗教者としての役割

であると確信している。

自分だけ良ければいいという弱肉強食の世界の論理とは違い、人類は命と命が傷付け合いながらも大きな営みの中でお互い支え合って生きている。そういう視点から、傷付き悩む人たちと一対一で誠実に関わり一緒に歩む、その積み重ねから、何かが生まれてくるに違いない。

 

三橋尚伸氏(真宗大谷派僧侶、産業カウンセラー)

現実の臨床の現場では、ほとんどが二十代半ばから三十代半ばぐらいに問題が表面に現れて、カウンセリングを受けに来ることが多い。しかし、実は幼いころから人や友達と関われないなどの様々な問題が起っている。この時点では家族が認めたがらず、親が強く叱り「べきだ」という視点でしつけをして、家の中だけで始末する。いよいよ社会生活を送らねばならなくなったときに会社などで問題を起こし、それが表面に現れる。

臨床の現場で強く思うのは、今の若者は子どもをしていないし、子どもでいることを許されてこなかった。たとえば働く両親が兄姉に対して、弟妹の面倒を見て留守を守れる「親の代理」を期待している。一方、子どもは「すべき」という世間や親の価値観に対し応えられないと、愛しても認めてももらえないということをよく知っているし、一人では生きていけないので、自分の感情を無意識に抑圧して、親の理想、要求、欲に合わせる。そうしている自覚がないため、余計苦しいのだろう。なんだか分からないけれども生まれてきたことが喜べない。生まれて良かったのだろうか? 生きていていいのだろうか、と。

世間の価値観の中だけで、人間としての問題を解決しようとしても無理であり、世間を

越えた非日常の価値観がなければ救われない。カウンセリングというのは、非日常のやり取りをする現場で、相談者と援助する側が心理的に絶対安全な関係を保つ中で行われる。世間では向き合った途端に対立、緊張の関係になるため、「向き合う」という言葉は問題があると思っている。人の闇や悩みに関わろうとするとき、向き合って対決するのではなく、あなたと同じく悩み、闇を持っている私が、一緒に同じ方向を見て歩く同行者としてカウンセリングを行う。宗教者も相談者も、誰でも同じ。みんな同じ方向を向いて一緒に共に歩く。これが「寄り添う」という言葉であり、受容や共感と表すものである。同じ悩みを持つ凡夫(ぼんぷ)として、いつも同じ方向を向いて歩く、これがカウンセリングであり、仏教の実践だろう。

カウンセリングを進めるなかで「あなたはそのとき、どんなふうに感じました?」と聞くと、多くの方が、「分からない」と答える。自分の感情や、何をしたいか何を考えたらいいのかが分からない。どれだけ傷付いていても、悔しいとか悲しいとかつらいということさえ分からなくなるほど感情を抑圧して、何も感じないことにして生き、命を必至に守っている。その結果、相談者の中には、私や様々な人に出会わなければ、殺人や罪を犯していたのではないかと自ら言う人がいる。犯罪に走る人は、出会いが許されていなかったのではないか。仏教で言う「縁」、人や教えと出会う縁が無かった。縁というものは自分の努力ではどうにもならないのが真理である。

お釈迦様の言葉に「一切皆苦(いっさいかいく)」とあるように、生老病死の「生(しょ

う)」、生まれたことだって苦なのだ。苦しみ悩む人の多くは、生まれたことを喜んでいない。自分の思うようにならない不条理なこの世に生まれてきたこと、おそらくその根本的な苦しみ、人間の持つ闇のようなところに気付いているのではないか。通常のカウンセリングでは対応困難な人を、宗教者や宗教施設にゆだねるケースを考えると、この不条理や無条件の赦しが保障されている人に聞いて欲しいのだろう。「じゃあ、仏教者が全部それを

やればいいじゃないか」と言われるが、宗教者ならできるのかというと、前言のとおり、宗教者も同じ世俗を生きている。僧侶も悩み苦しみ、たくさん自殺しているのだ。

カウンセリングで大事なのは、「傾聴法」。心と耳を傾けて聞き、相手に教えてもらうということ。他者の感情や気持ちはわからない。違う感性、違う価値観を持っているので何一つ分かるわけがない。ここが基本である。同行者として一緒に歩いていきたいと思う時、「教えて、そういうときはどんなふうに感じるの?」と教えてもらうのが、私の役目であると思っている。

 

大木光雄氏(金光教結城教会長)

金光教には「話で助かる道」という教えがあり、教会でお取次(とりつぎ)─参拝者の願いを聞きそのまま神に届け、その願いに対する神の思し召しを感じて参拝者に伝えていく働き─を日々行いながら、神の「人間を救い助けたい」というその思いと救いを言葉に乗せて伝えるように心掛けている。

三十代の頃のある夏の日に、何度か相談に乗っていた二十代の女性を駅まで車で迎えに行ったときのこと。女性はノースリーブのシャツを着ていて、車を見つけると両腕を振り出した。その腕はリストカットでズタズタに切り裂いてあって、それを見た通行人が立ち止まる。誰が見ても病んでいるということが一目で分かった。若かった私は非常にショックを受け、「嫌だな」と一瞬思ったのである。それが彼女に伝わり、後日その女性の母親が教会に怒鳴り込んできて、「あんたはうちの娘に何をしたんだ。うちの娘が落ち込んでいる。宗教なんてとんでもない」と言われた。その時彼女を受け止める覚悟の無さと器の小ささに唖然とした。精神的にいろんな問題を抱えている子たちは敏感である。その彼女の事柄を通して、金光教教祖の信仰に少しでも近づきたいと願うようになり、この道の教師としていつ何時も相談を受け、寄り添うことができるよう、そのあり方を貫きたいと思っている。

実際に悩みを持つ若者の話を聞き、受け入れてきた。ある相談者は初対面でなかなか話ができず、やっと自分がうつ病だという話をした。思わず「頑張ってきたんだね」と伝えると、ポロポロ涙を流し、「分かってくれるんですか」と、こう尋ねる。精神科医やカウンセリングでは「頑張らなくていいんだよ」と言われ続けてきた。「こんなに頑張っているのに、みんな私を否定するんです」と言い、「初めて、頑張っているんだねって言われた」と喜んでいた。

別の事例で、自分の存在を消したいと思ってリストカットするが、一方では生きたい、自分が生かされている「いのち」をもっと生かしたいという思いがあり、その葛藤や矛盾

で苦しくて切ないのである。自分が愛され必要とされている実感がないのだとつくづく感

じた。

金光教には「五本の指」の教えがある。「もし五本の指がみな同じ長さで揃っていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるから物がつかめるのである。それぞれに性格が違うのでお役に立てるのである」というもの。人それぞれの違い、生き方や持って生まれた心の問題などの違いを良しとして受け入れていける社会の在り方を考えていきたい。近代化は目に見える物や金にだけ価値を置いた。そこに生きづらさが生まれたのではないだろうか。宗教者は目に見えないものにでも感性を豊かにして見つめなければならないと思っている。

○ 石井研士・日宗連理事が三氏を交えて対談し、社会のなかで悩み苦しむ若者の実際の事態の深刻さと、これが、単に本人の問題ではなくて、家族、あるいは地域や日本社会全体の問題がそこに凝縮されているのであり、家族の関わり方が重大だという見解を示した。また、世間の価値観だけでどうにもならないことに宗教の果たす役割と、心の拠り所となる可能性を示した。

 

公益財団法人日本宗教連盟

「第2回宗教文化セミナー」要旨

平成25年6月17日・会場 國學院大學 常磐松ホール

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