第8回 宗教と生命倫理シンポジウム【要旨】

第8回 宗教と生命倫理シンポジウム

「生殖技術─『自然』から新しい倫理の模索へ─」

要旨

 

平成29年12月11日、神道大教院(東京都港区)において、第八回宗教と生命倫理シンポジウム「生殖技術─『自然』から新しい倫理の模索へ─」を開催した。柘植あづみ・明治学院大学社会学部教授が講演を行い、その後、猪子恒・日本宗教連盟評議員が会場の質問を交えインタビューを行った。およそ八十名の参加があった。

講演の冒頭で柘植氏は「これまで、生殖技術は女性のことだからといって、あまり社会で議論がなされてこなかった。今回の内容を持ち帰っていただき、議論していただきたい。」と、会場に呼びかけた。柘植氏は、実際に生殖技術を利用した女性達にアンケートやインタビュー調査を行った結果から見えてきた、「現実」と「社会」との間にある問題点を参加者に提起した。

 

はじめに

「子どもは授かりもの、子づくりは自然であるべきか」ということについては、私は反対の立場であるというわけではない。例えば、帝王切開も導入当時は自然なことではないと言われていた。そもそも、「自然」の概念が変わってきたといえるのではないか。

生殖技術の現状を見ると、生殖補助医療のうち、体外受精、顕微授精、凍結胚・融解移植といった技術は、実際に出生児数や妊娠率・生産(生きて産まれる)率のデータからみると成功率は低く、何度も治療をするため費用がかかり、経済的負担は大きくなる。一九四八年から行われている人工授精(AID)については、第三者の卵子や精子の提供を受けているため、生まれた子が自分の出生を疑問に思い、曖昧なアイデンティティーに苦悩することもある。代理出産については問題が多く、日本では(一部の例外を除いて)行われていない。また、新型出生前診断は、妊婦の血液で胎児の染色体の情報が調べられるため、開始から四年で四万人以上が検査を受けている。精度は上ったが必ずしも正確ではないのに、陽性反応が出ると九割が妊娠を中断するのが現状である。

妊娠と出生前診断等の経験についてアンケートやインタビューを行った際に、中絶や出生前診断を経験した女性たちは、これまでこれらの経験を誰にも言えないでいた。検査を受けるだけでも「疑っている」という罪の意識があって、元気に育っている子どもをみて、検査を受けてよかったのかいまだに悩んでいるという事実が見えてきた。

 

生殖技術を利用する理由

生殖技術は、自然だといえるのか、「授かりもの」とは言えないのではないか、と皆さん思うだろう。しかし、生殖技術を利用する人たちは、多額を費やし流産を繰り返して、努力して、やっと「授かった」と言う。その思いを考えると、授かりものというのは、技術を使うとか使わないとかそういうものではないのではないか。皆が、このくらいの年齢になれば子どもができるのは普通だと思い、不自然な技術は使うべきではないと思っている。ところが、自分たちに子どもができないとなると、完璧な子どもでなくていい、普通の子どもがほしいと思う。これは、わがままな願いなのだろうか。生殖補助医療というのは、自然を助ける「補助」なのであって、自分たちは神の領域を侵しているわけではないという思いがある。

 

生殖技術の倫理とは?

「生まれてくる生命はすべて平等だ」と言葉ではいうが、私たちは生命を平等に扱っているのだろうか。出生前診断や遺伝子検査は、生まれてくる子どもを障がいや病気を理由に差別していることにならないのか。検査をして、生まれてくる子どもに障がいがあるとわかると、両親や祖父母も、子どもがかわいそうだし育てるのがたいへんそうだという。更に、障がいのある子どもの親になるということ自体に偏見があるといえる。検査をすることがかえって問題を起こしているのではないか。近年、受精卵の段階で不都合な部分のゲノム編集を行う技術が進んできた。中絶しない代わりに、ゲノム編集した受精卵を胎内にもどすのだ。また、中絶ではないからと受精卵を捨ててしまうことがある。これは倫理的に問題がないのか。

生殖補助医療の商業化について、卵子等の提供も金銭のやり取りがあると、子どもの売買になると考える。では、無料で提供してもらうならいいのか、モノとして扱っていないか。一方、海外で行われている代理出産は、妊娠出産を労働と考えることはできないのか。危険もあり、実際に妊娠前から出産まで一年間は拘束される。お金をもらうのは労働の対価だと考えることもできる。人助けでやっているのだからと安価で受けさせられ、儲けているのはエージェントや弁護士、体外受精を行う医師だ。これは人権侵害じゃないのか。

 

現代社会の問題点

インタビューに答えた女性たちは皆、不妊治療しているときに「自分はダメな人間なんだ」と思ってしまうと答えた。「何で子ども産まないの、ご両親にお孫さんを見せてあげたくないの?」という言葉。欲しいと思わない人もいるのに、周囲の不用意な言葉がなくならないのは、子どもを持てないことに何か特別視するという現代社会の問題があるのではないか。うるさく言われるくらいなら、体外受精でもいいから子どもを持った方がいいと考えるのはおかしなことなのだろうか。

障がいを持った子供の会で、「私はダウン症の子供を持ったことをラッキーだと思う。ダウン症の子供を育てるのは楽しい。」とある母親が言った。社会では、障がいのある子どもがいることがアンラッキーだと思っている人たちが少なくない。こういう社会を変えるより、医療で個人的に解決する方が簡単だと考える状況を、どう思うのか考えてほしい。

 

公益財団法人日本宗教連盟

「第8回宗教と生命倫理シンポジウム」要旨  (文責事務局)

平成29年12月11日・会場 神道大教院

※無断複写等はご遠慮ください。本文引用の場合は出典を明記してください。